☆ ものの哀れを誘う平家伝説
文治元年(1185年)屋島の合戦に敗れた瀬戸内海をたどり西下し、
長門の壇ノ浦で滅亡した。従って内海の島々には平氏にからむ伝説が各
所に残っている。
大崎上島にも歴史的事実か伝説か判断できない多くの平家伝説が残って
いる
平清盛は安芸守の官位を賜り善政を行っていたようで、安芸国では信望
があり、島民は平氏に好意的で全島で源氏の追伐から守ったとも語られ
ている。
☆ 大崎上島の宮島伝説と厳島神社
大崎上島の歴史こぼれ話等あれこれ。
これからも、最近の写真・資料等があれば付け加えていきます。
向山の榎本さん提供。
☆ ものの哀れを誘う平家伝説
文治元年(1185年)屋島の合戦に敗れた瀬戸内海をたどり西下し、
長門の壇ノ浦で滅亡した。従って内海の島々には平氏にからむ伝説が各
所に残っている。
大崎上島にも歴史的事実か伝説か判断できない多くの平家伝説が残って
いる
平清盛は安芸守の官位を賜り善政を行っていたようで、安芸国では信望
があり、島民は平氏に好意的で全島で源氏の追伐から守ったとも語られ
ている。
☆ 大崎上島の宮島伝説と厳島神社
現在の宮島・厳島神社は平清盛の造営によるところが定説である。
瀬戸内海に広く分布する宮島伝説の元は厳島神社の外伝として伝わる「伊都
岐島皇太神鎮座記(いつきしますめのおおかみちんざき)」による市杵島姫
命(いちしまのひめのみこと)の宮柱を立てる地を求めての巡行が元にな
り、各々ゆかりの地が更に伝説を加えて、その地独特の宮島伝説か伝えられ
てきている。
総屋敷に通じる古道「実近道」周辺の野山に点在する古墓を平家の落武
者の墓という。
伝・その昔屋島の合戦に敗れた平家の武将が数人の郎党をつれて隠れ住
み山野を耕したという。頭領の屋敷を「総屋敷」と昔から呼んでいる。
大崎上島の西方の最高峰大畠山はかって平家の落武者達が開いたとされ
「小野ガ峰」と呼ばれていた。
屋島の合戦に敗れた平家の落ち武者達は源氏の追討を逃れ山深い岩倉谷の奧
に隠れ住んだという。
④ 平氏残党山尻の旧家、屋号「赤旗屋」
庚申(こうしん)堂(大崎上島唯一)の丘の上に屋敷を構えていた
家は家伝によると屋号を「赤旗屋」といい、吉兆の時には庭の旗竿に赤旗
掲げていた由。従って地域の人から赤旗屋と呼ばれていたという。
伊都岐島皇太神鎮座記による市杵島姫命・宮柱建てる巡行ゆかりの地。更に大崎上島独自に加えた宮島伝説が4話伝わっている。
厳島明神(市杵島姫命)巡行ゆかりの地。
文治元年(1185年)屋島の合戦に敗れた平家の武将小川左衛門尉吉則が
山深い小原の地に掾り小川姓の祖となる。
⑧ 向山・刀崎の武者幽霊
この入り江に碇泊すると夜半過ぎに鎧武者の亡霊が現れたという。沖の折免
島周辺の源平合戦で海に沈んだ武者の亡霊という。
(歴史的資料は見あたらないが、平家物語から推測的に伝えられたものか不明)
参考:平家物語に出てくる沼田次郎と楽音寺
平清盛の全盛時代に沼田の実力者は沼田次郎であった。平家物語のよる
と次郎の妹は四国河野家に嫁していたが、夫の道清は備南から押し渡っ
た平家方の奴可入道に惨殺され、勝ち誇った入道は部下三百余人と共に
鞆(福山市)で酒盛りをしていたところ、道清の子四郎は本郷から若者
百余人を引き連れて攻め込み彼らを一網打尽にした。沼田次郎はこの頃
から平氏の手を放れ、その討伐を決した彼の腕は鳴り、胸は希望と期待
でいっぱいであった。先ずその手始めとして楽音寺(本郷町南方)を強
襲した。当時楽音寺の住職は清盛の弟祐円で山陰宇賀庄七千貫を所領し
た全盛期であったが、たちまち火に包まれて祐円は逃走した。時に寿永
元年(1182年)5月のことであった。楽音寺事件を四国の讃岐で伝
え聞いた平氏第一の勇将であった平教経は、軍船を連ねて鞆に上陸、
福山に一泊して翌日、本郷に攻め入ったのである。次郎は、さては来た
かとサカモ木を立て、沼田城に拠ってこれを防いだが、1昼夜にわたる
両軍激戦の結果、部下はほとんど戦死して矢種も撃ち尽くしてしまっ
た。次郎はもはやこれまでと、茅の市北側高木山で弓の弦を切って平家
に降った。
家も城も焼かれ、お宮も城も赤い焔をあげて燃え続けた。かくして古代
の本郷に大きな足跡を残した沼田家は滅び、次郎はついに夢破れて遠く
村人の送るなかを引かれていったが、その消息は明らかでない。
一説によると、後日彼は壇ノ浦に消えたとも伝えられている。
⑩ 宮島伝説・大西厳島神社大鳥居跡
今は田なれどもその昔海中に大西厳島神社の大鳥居あり、その朽ち木残りそ
の地を鳥居木と呼び早苗を植えるに女子を禁ず宮島厳島神社の新田の由。明
治時代の始めまでこの田で取れた新米6俵を小舟に積み厳島神社に納めてい
たという。市杵島姫命はこの大鳥居から神峰山に登り鎮座された故事があ
り、大崎上島の宮島伝説の原点になった。
大崎上島明石の南対岸の岡村島に正月鼻が突き出している。人里離れたこの鼻に正月の朝、平家残党が集い、平家の再興を誓いあったという。
伊能忠敬「大日本沿海興地全図」
竹原、今治付近模写図 第六管区海上保安部のホームページに
行きます。
海上保安庁著作権について下記によります。http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/poriciy/caution.html
大崎上島は
日本實測録には「大崎上島、周廻一十二里一十一町七間」
三手分、四手測とは別なところに
18日夜9ツ頃乗船。佐木島、小佐木島、割島、宿根島手分測、合測して19日7ツ前済。豊田郡田野浦初忠海の内能地迄測。別手と一同に7ツ頃忠海湊に 着。止宿綿屋清左衛門。家作よし。‥‥‥20日 朝より晴天。6ツ前三手分。測量出立。一番は忠海湊宮床ノ岬より逆測。忠海能地オホカ谷迄測。(昨19日 測の終)二番同宮床ノ岬より順に豊田郡高崎村、加茂郡下市村の界迄測。又棚橋島を測。三番は大久野島、小久野島を測。一番は9ツ後、二番は9ツ半後、三番 は8ツ後に忠海湊へ帰宿。‥‥‥
とあり、3組別々に違うところを測定し後で合わせたものと思える。
伊能忠敬
伊能忠敬は、隠居後50才を過ぎてから江戸に出て、幕府天文方高橋至時の門に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学等を学びました。その後、幕府の命令で55歳から71歳まで、17年間全国各地を測量し、国家的大事業である大日本沿海輿地全図を完成させました。
大崎上島測量
第5次測量
西暦 1806年4月21日
宿泊地 大崎上島 東野浦現在地: 広島県 豊田郡大崎上島町
四手測。大崎上嶋及び周辺の島々を測る。
西暦 1806年4月22日
三手分。大崎上嶋及び周辺の島々を測る。
宿舎 大庄屋 有田忠八郎