厳島神社の伝説
福岡県玄海町鎮座宗像大社の御祭神は厳島神社と同様で、宗像大社の伝説に「湍津姫命」は豊前の宇佐に、「市杵島姫命」は安芸に御遷座のなったとあります。
厳島神社の伝説では、最初の御鎮座地が豊田郡瀬戸田島の志加田原であり、更にここから豊田郡大崎島に御遷りなり奈加の村、加牟の峯に御遷座があり同(大崎)島の七浦を御巡幸され、その所々に御宮を造営されたこれを「七浦行者(のかりのみや)」といいました。
しかし、ここも御神慮に適わなかったから、更に安芸の島々を御巡行になり、最後に大竹市大竹浦に到り給いそこから厳島を御覧になって「あそここそ吉い所だ。永久に鎮まろう」と仰せになり、はじめて御鎮座地が定まったと伝えられています。
資料は、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」
市杵島姫命と大崎上島
現在日本三景の一つである厳島神社は、又の名を宮島大明神といって世の人々に親しまれていますが、このようなお話が残っています。
この宮島さんのお祭りの一人である「市杵島姫命」にはその昔、二歳になるお子様がおりました。それはそれは、かわいらしいお子様で姫のかわいがりようは、目に入れても痛くない程のものだったといいます。
ところがある、日大変な事が起こりました。
姫のかわいがっておられた、このお子様が突然姿を隠してしまったのです。どこへ行かれたものか、誰が連れ去ったものか、さっぱ見当がつきません。姫は大層嘆き悲しんであちらこちらと、あらん限りの力を絞ってお探しになりましたが、その努力の甲斐もなく、とうとうお子様を見つけることはできませんでした。
さて、それからというもの、姫はすっかり元気をなくしてしまわれました。毎日毎日、遠くを眺めては、ほっとため息を尽くばかり。また、どういうわけか雉の鳴き声を聞くと、身にしみて耐え難いといわれるようになりました。
そして今まで住んでおられた土地を離れ、どこか平和で美しい、安住のできる土地を求めて遍歴の旅に出られたのです。
瀬戸内海に浮かぶ美しい島を眺めながら船を進めていくうちに、やがて姫は大崎島の神ノ峰を見つけられました。まず、木江浦に寄られ、上陸してみたものの、山道は険しく木が生い茂り、とても登っていけそうにありません。
そこで、船を北西に廻して矢弓の加組の鼻で一休みしていると、大崎の大西では皆んなで海に鳥居を作って、姫の来られるのを歓迎しているのが見えました。
早速姫は、その方に向かって船を進め、神ノ峰に登ってごらんになると、そこからの眺めはまた一段と素晴らしいものではありませんか。姫はこの地こそ安住の地であると思われ、沖の小島に見とれておりました。
ところがその時です。
一羽の雉がどこからともなく飛んでくると、姫の頭上で糞をして逃げていってしまったのです。姫は、日頃から雉を心よく思われていなかっただけに、この出来事を大層気にかけられて、とうとう神ノ峰を立ち去って行かれたといいます。
そしてその後、大串の外浜で船に乗せられて他の地を求めて、西へ船を進めていくうちにやっと理想的な安住の地を見つけられました。それが今の宮島であると伝えられています。
この民話に出てくる市杵島姫命が立ち寄られたゆかりの地、木江、矢弓、大串には姫を祭る厳島神社が建立され今日に至っている。また、姫を迎えた大西にはその昔、海であった場所に伝説の大鳥居の朽木が残っており、また八幡山の西南西、鹿の池谷にかって大西厳島明神鎮座の旨が文政二年(1819)の中野村の国郡志御編集下弾書出張控に記載されている。
佐木島
大平山頂上から北側に少しおりた平らなところが「千畳敷」。
宮島に祀られている「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)が、宮島に定住する以前に、この島の大平山に登り、安住の地に決めました。
ところが草むらから大きなキジの声がして、大平山から飛び降り、この地をあきらめて去りました。
市杵島姫命が飛び降りた勢いで岩が二つに割れたと伝えられており、そのあたりは「割石」と呼ばれています。
神ノ峰に宮島さんが鎮座されていたという話
民話その一
昔むかし、その昔、厳島明神が安住の地を求めて、木江浦(今の木江港)に船を寄せられて、神ノ峰に鎮座されていました。ある日、四方の美しい眺望を愛でていたところ、遙か西の彼方の厳島の弥山が扇の高さだけ高かったので、大串の外浜から船に乗られて遷座されたという。船に乗られた地が大串の厳島神社だと伝えられている。
民話その二
昔むかし、厳島明神が鎮座の地を探して神ノ峰にお登りになった。頂上の美しい眺めが素晴らしく、お気に召したと見えて、「これまさに秀霊の地なるかな」とのたまう宣わせられた時、あいにく一羽の雉が飛んできて、明神様のお頭に糞を垂れかけて飛んで行った。
明神様が激怒されたことは申すまでもないことで、直ちにこの地を払って宮島に遷座されたという。
以来大崎島の雉は神罰によって尻が腐ってしまったと言われている。宮島に遷座されるとき乗船された場所が大串の外浜の厳島神社の地と伝えられている。
民話その三
昔むかし、大昔、厳島神社は生口島の瀬戸田に鎮座されていたが、ことの外、蚊が多かったので、この地をお嫌いになり、安住の地を求めて大崎島に渡ってこられ、神ノ峰にお登りになられた。
ところが、峯の素晴らしい眺望が一目でお気に召されて「この地こそ我が住まいにふさわしき場所なり」といわれて鎮座されたという。或る日のこと雉が蛇を殺すの見られて、大変嫌がられていたところに、一羽の雉が明神様の頭に糞を垂れかけて飛んでいった。
明神様は大変お怒りになられて神ノ峰をあとに大串の外浜を経て、静かで美しい厳島の弥山に御遷座されたという。
蒲刈島
昔、蒲刈の島には、蒲(がま)が大変多く茂っており、その中には多くのキジが住んでいました。
ある時「宮島さん」が社を建てる場所を探して、この地に来られました。
そして向浦(むかいうら)の小高い山に登られ、四方を眺めておられたとき、キジが「ケーン、ケーン」と、けたたましい鳴き声を上げて飛び立ちました。
宮島さんは大変おどろかれ、その際に櫛(くし)を落とされました。
お付きの者は、その櫛を探すため、周囲に茂っている蒲を刈り取りました。
その時から、この地を「がまがり」、転じて「かまがり」と言うになりました。
なお、この小高い山を、櫛を落とし探したところから、「串山」と呼ぶようになりました。
また宮島さんではなく、神武天皇が東征の途中に立ち寄ったとか、神宮皇后が三韓への途中に立ち寄った時の話、という異説もあります。
串山と宮島さん
参考: http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/kusiyama.html
宮島の神様(広島では宮島さんと言う)が、まだ宮島に辿り着く前の話です。
大崎上島の神の峰に住んでおられた宮島さんが、蒲刈の串山におつきになられました。
宮島さんは「あまり高くもなく、すばらしい眺めだ。しかし、前にある島が少し遠すぎる。手前に寄せたらよかろう。」と思われました。
そして「島よ来い」と手招きされると、不思議なことに島はだんだんと近づいて来ました。
そこでこの島を「クルシマ」と名付けられました。
今度は遥かに本土の方を眺められると、もう一つ島がありました。
あれもついでに寄せようと念じられましたが、どうしても近づきませんでした。
「情けないことだ」と、この島を「ナサケジマ」と命名されました。
そして、ここを永住の地に決めようとなさった時、奥山でケンケンと雉が鳴きました。
「雑の鳴く所には私はいられない、悲しいことだが立ち去らねばならない。」といって西にむいて出ていかれました。
仏岩の上の小さな谷が「宮島さんが住んでくださったら繁栄するのに、悲しい悲しい。」と泣いたそうです。
それ以来、この谷を「カナシの谷」といい、夏の夕暮れでも蚊が一匹もいないと言われています。
宮島伝説
大崎上島には宮島伝説があり、厳島神社の主祭神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が木江浦に船をつけられ、神の峰に鎮座されたが、次のような伝説により大串の外浜より出ていかれ厳島に鎮座された事になっている。
神の峰より厳島の弥山が扇の要ほど高かった。姫命が眺望をめでているとき雉が頭に糞をたれた。あるいは雉が蛇を食い殺すのを見た。等の話が残っている。
一説には木江浦に上陸したが、山が険しくなだらかの方から登ろうとして矢弓まで来て休憩していると、大西の海中に鳥居を立てて姫命を迎える準備をしていると聞き、その鳥居をくぐって神の峰に登られた。ところが前記の理由で大串の外浜より出て行かれたことになっている。
ここにも大崎上島と雉が出ている。大崎上島には生口島の瀬戸田から来たとされている。瀬戸田は蚊が多くて出たようだが、ここにも蚊の話があった。
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市杵島姫命とは
天照大神と須佐之男命が誓約(うけい)をした際、須佐之男命の剣から生まれた三女神のなかの一神(『古事記』)。神の島である沖ノ島の神を斎(いつ)き祀(まつ)る巫女(みこ)の意で、巫女が神になっている。宗像(むなかた)大社(福岡県)の辺津(へつ)宮の祭神で宗像氏が祀る。